LOGIN◇ その夜、雨が降った。 窓を細かく打つ、静かな雨だった。嵐ではない。だが、春の前の冷たい雨は、館じゅうの空気を少しだけ重くする。暖炉の火がいつもよりあたたかく感じられ、廊下を歩く人の足音まで湿りを帯びるようだった。 リュゼリアは寝台へ移されたあとも、しばらく眠れなかった。 雨の音を聞きながら、胸の奥に残る咳の痕を感じていた。今日は昼にも強く咳き込んだ。朝だけではなかった。明日はどうだろう。明後日は。そう考えかけて、やめる。 先を数えたところで、咳は止まらない。 ただ、こうして雨の夜にも自分が“怯えるだけではない”ことに、ふと気づく。 怖くないわけではない。 怖い。 咳が消えないことも、少しずつ食べられなくなっていくことも、疲れやすくなっていくことも。 けれど、それと同じだけ、自分はまだ花の咲くところを見たいと思う。明日の風が弱ければいいと思う。白いマーガレットの花弁がどこまで開くのか、青いネモフィラがどれだけ色を深めるのかを見たいと思う。 それは生きたいということなのだろう。 病が消えなくても。 体が確実に蝕まれていても。 その二つは、同時に存在できるのだと、ここへ来てからようやく知った。 部屋の隅では、アイダが静かに本を閉じた。「奥様」「何?」「おやすみになれそうですか」 リュゼリアは少しだけ考えてから、微笑む。「ええ。……今日は少しだけ」 アイダは寝台の脇へ近づき、掛布の端を静かに整える。「夜中に咳が続きましたら、すぐにお呼びくださいませ」「ええ」「遠慮なさってはいけません」「わかっているわ」 そう答えながら、以前の自分なら呼ばなかったかもしれないとリュゼリアは思う。 耐えられる程度なら、一人で耐えた。 誰かを起こすほどではない。 朝まで待てばいい。 そんなふうに考え、自分の苦しみをいつも小さく扱っていた。 だが今は、必要なら呼んでもいいと思える。 アイダは迷惑そうな顔などしない。 ミナも、医師も、館の侍女たちも、自分の咳によって空気を壊されたとは思わない。 苦しい時に苦しいと言っても、誰かの時間を奪った罪人にはならない。 それを知れたこともまた、この別邸で取り戻したものの一つだった。 雨の音は途切れない。 窓の外の花壇も、今は冷たい雨に濡れているだろう。 白い花弁は重みで
咳の痛みが引いたあと、リュゼリアはゆっくり目を開けた。 窓の外は夕方に近い色へ変わっている。部屋の隅ではヴィルレオがまだ椅子に座っていた。彼は彼女が目を開けたのにすぐ気づき、身を起こす。「水は」「大丈夫」「熱は」「少し、落ち着いたわ」 そう答えると、彼はほんのわずかに息を吐いた。その安堵があまりにも露骨で、リュゼリアはかえって少しだけ困ってしまう。「旦那様」「何だ」「そこにいてくださるのはありがたいけれど」 言葉を選ぶ。責めたいのではない。けれど、その張りつめ方の中にいると、自分のほうまで余計に息が詰まりそうになる。「そんなに苦しそうなお顔をなさらないで」 ヴィルレオの眉がわずかに寄る。「していたか」「ええ」「……そうか」 それだけしか返ってこない。だが、それが彼なりの精一杯なのだろうともわかる。 リュゼリアは少しだけ目を伏せた。「咳が消えたわけではないの」「……」「ここへ来たからって、急に治るわけでもない」「わかっている」「ええ。頭では、ね」 その一言で、ヴィルレオが黙る。 そうなのだ。彼は頭ではわかっている。医師の説明も聞いている。余命半年という言葉も聞いた。けれど実際にこうして、穏やかな暮らしの中でなお咳が消えない現実を見せつけられると、身体のほうが受け止めきれていないのだろう。 リュゼリアはそのことを責められない。 自分ですら、こうして静かな館で花を見て、ひとり分の食卓で少しずつ食べ、土の匂いのする午後を知ってもなお、体が確実に蝕まれていることに時々ひどく驚くのだから。 穏やかさは、病を止めない。 ただ、苦しみの中で少しだけ呼吸をしやすくするだけだ。 それだけなのに、その“それだけ”がどれほど大きいかも、今の自分にはわかっている。「わたくし」 リュゼリアは小さく言った。「ここへ来て、少しだけ生きている気がするようになったの」 ヴィルレオが顔を上げる。「ええ。咳もするし、熱も出るし、立っていられない日もある。……でも、それでも、前よりは“生きている”の」 言葉にして、自分でもその真実味に少し驚く。 病んでいるのに。 弱っているのに。 たしかに少しずつ身体は遠ざかっていくのに、それでも前より“生きている”と感じる。 それはきっと、王都での時間がどれだけ生きている実感から遠かったかと
「……花は」 少ししてヴィルレオが言う。「昨日より開いたな」「ええ」 リュゼリアはようやく外から視線を離し、薄く笑った。「白のほうが先にたくさん」「青はまだ小さい」「でも、根はついたみたい」 その会話のあいだは、咳も痛みも少しだけ遠い。花の話をしている間だけは、自分が病んでいることを忘れるわけではないが、それだけではなくなれる。 けれど、その穏やかさも長くは続かなかった。 次に喉へ上がってきた咳は、朝より深かった。「っ……、ごほ、……っ、げほ、ごほ……!」 胸が一気に引き絞られる。長椅子の縁を掴む指に力が入り、視界の端が白くなる。喉の奥が焼けるように痛み、息を吸おうとするたびにまた咳が返ってくる。前かがみになりかけたその瞬間、反射的にヴィルレオが立ち上がった気配がした。 手が伸びかける。 けれど、その手は途中で止まる。 その一拍のためらいが、今の二人のすべてみたいで、リュゼリアは咳の痛みの中でそれを感じた。 結局、先に動いたのはアイダだった。すぐに水を差し出し、呼吸が整うのを待つ。背へ触れる手つきも、かつての焦りを失っている。彼女はもう、リュゼリアの咳の波を知っている。 対してヴィルレオは、長椅子の脇で立ち尽くしていた。 彼の顔を見る余裕はなかった。だが、その沈黙の重さだけでわかる。何かしたいのに何もできない、そのぎこちなさが空気へ滲んでいる。 咳は長かった。 ようやく落ち着いた時には、胸の内側に刃物の跡みたいな痛みが残り、目尻にはまた涙が滲んでいた。リュゼリアはゆっくり息を整えながら、差し出された布で口元を拭う。赤いものはない。それだけは少し救いだった。「……大丈夫」 掠れた声でそう言うと、ヴィルレオが低く問う。「それを、毎日か」 その声には、驚きと、怒りに近い痛みと、どうしようもない無力が混ざっていた。 リュゼリアは少しだけ目を閉じる。「毎日、というわけではないわ」「だが、あるのだろう」「ええ」 隠しても仕方がないことだった。「朝に少し。夜に少し。……あと、こういうふうに時々」 ヴィルレオは何も言わない。 その沈黙が、まるで彼自身の呼吸まで止めているように感じられる。「前より、増えているのか」 やがて、低い声が落ちる。 リュゼリアは答えるまで少しだけ間を置いた。 嘘をつくことはできたかもし
◇ 朝食は、今日もひとり分の食卓だった。 窓辺に近い小さな食堂。淡い光。白いクロス。小ぶりの花瓶に挿された野の花。温かな粥と、薄いパン、蜂蜜を落とした茶。すべてが静かで、すべてがやさしい。 リュゼリアはこの食堂を好きになり始めていた。 王都の食卓にはなかったものが、ここにはある。誰かの顔色より、自分の喉の具合を気にしていい時間。食べることが義務ではなく、ただ自分の身体へ少しずつ戻していく行為であってよい時間。誰かが先に席を立つ前に急いで終える必要もなければ、沈黙の重さを薄めるために無理に言葉を探す必要もない。 ひとり分の食卓は、最初は少し寂しかった。 だが今は、その寂しさよりも、この小ささのほうが好きだった。卓が長すぎず、皿が多すぎず、湯気の匂いがちゃんと鼻先へ届く距離にある。病んだ身体には、その近さがありがたい。 けれど、その朝、最初のひと匙を口へ運んだ瞬間に咳が来た。「っ、ごほ……、ごほ、」 粥の湯気が喉へ引っかかっただけなのか、それとも朝の咳の続きなのか、自分でもわからない。咄嗟にナプキンで口元を押さえ、身を折る。胸の奥で痛みが弾け、喉に熱が走る。目の前の卓が一瞬だけ揺れたように見えた。「奥様」 アイダがすぐ背後へ来る。だが手はすぐには触れない。彼女はもう知っているのだ。いま不用意に背へ触れると、かえって咳が乱れる時があることを。 リュゼリアは数度浅く息を吸い、咳が落ち着くのを待った。やがて痛みだけが残り、目の縁がじわりと熱くなる。泣きたいわけではない。ただ、咳の強さで生理的に涙が滲むのだ。「……大丈夫」 ようやくそう言うと、アイダがゆっくりと背を撫でた。「今日は少し、熱いものが先に喉へ当たりすぎたのかもしれません」「ええ……そうかも」 そう言いながら、自分でもわかっていた。 違う。 “熱いものが当たったから”だけではない。 咳は、もう少し深く根を張ってきている。 前よりも、きっかけを選ばなくなっている。 以前は冷たい風や、朝の乾きや、長く喋ったあとにだけ出た。今は、ただ一匙の湯気でも、少し笑っただけでも、ふと胸の奥がざらついて続いてしまうことがある。 それでも、朝食の匂いはまだ嫌いになっていなかった。 痛みが少し引いたあと、リュゼリアはまたスプーンを取る。温度を確かめるように少し息を吹きかけてから、
朝は、穏やかだった。 その穏やかさが、かえって残酷だとリュゼリアは思うようになっていた。 南の別邸へ移ってから、朝の始まりはいつもやわらかい。湖から吹く風はまだ少し冷たいが、王都の石の隙間を刺すような冷え方ではない。水を含んだ空気が窓辺へ静かに寄り、レースを揺らし、淡い光を部屋の隅へ薄く広げていく。遠くで水鳥が鳴き、館のどこかで木の床がかすかに軋む。そんな、ごく小さな音だけで朝はやってくる。 王都の屋敷では、朝はもっと重かった。 目を覚ますより先に、その日の予定が胸へ落ちてきた。客の名、帳簿の数字、夫の顔色、返書の順序、食卓の空気。息を吸うことさえ、何かの始まりと同時だった。だから今の、この何も急かさぬ朝は、本来なら救いのはずなのだ。 けれど、救いと同じだけ、確かなものもある。 咳だ。 目を覚ました瞬間は、たいてい一度だけ忘れられる。眠りの名残の中では、胸の奥に沈んだ重さもまだ形を持たない。喉の乾きだけを感じ、次に窓辺の白い光へ気づき、今日の風は昨日より少しやわらかいのかしら、などとぼんやり考える。そのわずかな数秒ののち、必ず胸の深いところで小さな棘が動く。 そして、思い出す。 消えていない。 今日も、ちゃんとそこにある。「っ……、ごほ、……ごほ」 最初の咳はいつも小さい。 だがそれが二つ、三つと続く頃には、胸の奥に紙を裂くような痛みが走り、喉の粘膜がひりつき、眠りの残り香は一瞬で吹き飛ぶ。呼吸の浅さも、背中の重さも、全部まとめて体へ戻ってくる。 リュゼリアは寝台の中で口元へ手を当て、咳が落ち着くのを待った。 窓の外では、朝の光がまだ柔らかい。庭の低木に乗った露が白く光り、遠くの花壇のあたりに、白と青の小さな色が見えた。自分で植えた花たちだ。ネモフィラの青は、遠くから見るとまだ頼りなく、風が吹けばすぐ揺れてしまいそうで、マーガレットの白は少しずつ花弁を広げている。 あの花は今日も咲いている。 自分も今日も息をしている。 その両方を確かめたあとで、咳の痛みがまだ胸の内側へ残っていることを知る。 穏やかな暮らしは手に入った。 だが、病はひとつも置いてこられなかった。「奥様」 長椅子で仮眠を取っていたアイダが目を覚まし、すぐに起き上がって寝台の傍へ来る。彼女の動きにはもう慌てがない。最初の頃は、リュゼリアが少し咳をしただけで
◇ 夜明け前、ようやくヴィルレオは客室へ戻った。 空はまだ暗い。だが、窓の端だけがわずかに白み始めている。夜は完全には終わっていないのに、朝の気配がどこかに紛れ込み始めている。その曖昧な時間が、今の自分に似ている気がした。 遅すぎる愛。 始まったばかりの後悔。 失いたくないという決意。 それらは全部、まだ朝とも夜とも言えぬ場所にある。 寝台へ腰を下ろし、両手を顔の前で組む。祈るような形になっていることに気づき、少しだけ苦く笑った。神に祈る柄ではない。けれど今は、誰に向ければよいのかわからぬまま、それでも何かへ縋りたい気持ちがあった。 後悔は始まったばかりだ。 それが彼女を救うわけではない。 むしろ、救えなかったことをこれから何度も突きつけてくるだけかもしれない。 それでも、今度こそ彼女を失いたくないとヴィルレオは思った。 命も。 心も。 期待も。 そのすべてを失いたくないという願いが、もうどれほど身勝手かもわかっている。 命は彼のものではない。 心も、期待も、リュゼリア自身のものだ。 彼が「失いたくない」と思ったからといって、それらを自分のそばへ縛りつけてよい理由にはならない。 むしろ、かつての彼は、彼女が差し出していた心を受け取らないまま、それでも妻として自分の隣へいることだけは当然だと思っていた。 その矛盾にすら気づかなかった。 今度こそ失いたくない。 そう願うなら、まず彼女を所有物のように扱うことをやめなければならないのだろう。 離縁を望む心も。 王都へ戻りたくないという思いも。 この別邸で穏やかに過ごしたいという願いも。 それらすべてが、自分にとってどれほど苦しい答えであっても、彼女自身のものとして受け止めなければならない。 愛しているから手放せない。 そう言うことは簡単だ。 だが、それが彼女の時間を奪うのなら、その愛はまた彼女を苦しめる。 遅すぎる愛を、さらに身勝手なものへ変えてはならない。 ヴィルレオは組んでいた手をゆっくり解いた。 指先には、扉の前で強く握った跡が残っている。白くなった節へ血が戻り、じんと鈍い痛みが広がった。 失いたくない。 それでも、彼女が望まぬ形で手元へ置くことはできない。 その二つの思いは、今のところ少しも折り合わない。 彼女を生かしたい。 そば







